ラ・ラ・ランド 2回目を観てみたら…

※ネタバレ満載なのでご注意ください。

 

 

公開から一ヶ月ほど経つというのにまだまだ劇場は満員、通常よりも価格の高いIMAX上映さえ満員御礼の『ラ・ラ・ランド』。

公開前に試写で一度観て、鑑賞直後は、予告編から受けるイメージ通りの優等生的で非の打ち所のない楽しさ・美しさ、そして観終わったあとの少し切ない感じがいかにも"いい映画"という感じで、良かったなと思っていました。


しかし、鑑賞から時間が経つにつれ、なんだかあざといストーリーだったなという気持ちがむくむくと心の中で湧き上がってきました。

ラ・ラ・ランド(=ハリウッド、ロサンゼルス)で夢を持って暮らしているセブとミア。そんな2人が恋に落ち、夢を追う過程で迷走し、やがて恋は終わったもののそれぞれの夢を掴む。

このストーリーの全てが、映画のラストで展開されるラ・ラ・ランド(=恍惚状態、または夢の国)の幻想的な映像を観客に見せ、観客を恍惚とさせるためにお膳立てされたもののように感じ始めたからです。

だから、ネット上で日々繰り広げられる、ラ・ラ・ランド素晴らしすぎる派とそれほど価値なし派のどちらの言っていることも分かるなあと思っていました。

 

そんなわけで、特に2回目を観る予定などなかったし、それこそWOWOWだかスターチャンネルだかでいつか放送されたら観るかもね?くらいの非常に消極的な姿勢でいたのですが、家族が観に行きたいとのことで、同行することに。

本当にやる気がなかったので、もしかしたら寝るかもしれないな…などと不届きなことを考えながら座席についたのですが、2回目を観たら全てが腑に落ちて、ああ、やっぱりこの映画は傑作なんだと思い知ることになりました。そして2回目のほうが断然楽しかったです。

1回目と2回目の間にこの映画について考えることはまったくなかったので、ただ2回目を観ただけでスッと自分の中で納得できるというのも、なかなか不思議ではあります。

 

普段、映画についての考察はすごく苦手で、だからこそブロックバスター映画ばかり好んで観ているといっても過言ではないほど。

でも、せっかくこの映画を観て思うことがあったのだから書き残しておこうと思います。

 

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この映画がイマイチ派の人の意見を詳しく読んだわけではないので、1回目を観たあとの私と同じ意見かはわからないですが、イマイチ認定の理由としておそらく多いんじゃないかと思うのが、展開があざといこと、尻すぼみ感があること、そして主人公2人の好感度が低めということ。あとは、大してミュージカルしてないってことですかね?

 

冒頭こそハイウェイで人々が踊り歌い、続く場面でもミアと友達たちがカラフルなドレスで歌い踊ったり、業界人の派手なパーティーが出てきたりで色彩溢れるポップな印象かつハイテンション気味なのに、だんだんその色彩は褪せてきて、最後の"もしもの世界"でさえ鮮やかな色合いとまでは言えません。

また、セブはろくに仕事もしていなさそうなのにオシャレなスーツを着て、言うことといえば「ジャズ最高」「他のやつの意見はクソ」。ミアはミアで、オーディションがあるのはわかりますが仕事(アルバイト)への責任感はまるでないし、昔の映画至上主義で、自分で受けたオーディションのくせに「くだらない青春ドラマ」みたいに断じたり。

 

誰しもそういう時期があったことと思いますが、ストーリー中盤くらいまでのセブとミアは、「才能はあるのに見出されていないだけ」「自分には成功するに足る能力がある」という根拠のない自信にあふれています。活躍する場と出会っていないだけで、その場所さえ与えられれば素晴らしい活躍が出来る、という自信。

だからセブは、レストランの支配人に何度釘をさされても、平然とセットリストにない曲を弾きます。みんなジャズの良さを知らないだけで、聞けば虜になるはずだと思っているのです。なぜなら他の人の意見やセンスはクソだけど自分は違う、そしてそんな自分がジャズを最高だと思っているから。

そしてミアも、自分がオーディションに受からないのは、審査員がメールをしながら適当に自分の演技を見たり、途中で邪魔が入ったりするせいだと思っているふしがあります。自分のおばは女優だった、何かの賞もとった。だから自分にも女優としての輝かしい未来が待っているはず、と思っているのです。

そんなふうに自信に満ちあふれた2人を取り巻く周りの景色は、色彩が豊かで、テンションも高いです。

 

しかし、セブもミアも、私たちの誰もがそうであるように、あるとき真実を悟ります。自分には多少の才能はあるかもしれない。しかし、自分が思っているほどの才能はない、と。

セブがレストランで自分の思う"最高"の曲を弾いても、誰も聴き入る人はいません。ミアとデートに行ったジャズバーも、お客は中高年ばかりで、活気にあふれているとは言いづらい雰囲気。

ミアが、演技で日の目を浴びなくても脚本なら、と脚本を書いて一人芝居をしてみても、演技は大根、演出の意味も意味不明と酷評。そしてこれは憶測ですが、ラストチャンスと思って挑んだパリで撮影予定の映画のオーディションも、おそらく落ちたのだと思います。実家まで迎えにきたセブに言ったように、ミアに似たような感じの雰囲気でもっと演技がうまい人はごまんといるのです。

そして現実を知った彼らを取り巻く景色はもはや、自信にあふれていたころの色と光にあふれた景色ではありません。

 

セブは"死にゆくジャズ"を自分の演奏で救うことを諦め、自分の好きな音楽を自分の店で扱うことさえ出来ればいいと思うようになりました。お客は相変わらず中高年ばかりで、ジャズの未来を担うような若者はいません。自分の弾くピアノだけが最高なのではなく、他人を認め、他人に演奏を任せるようになりました。

ミアについては明確な描写はありませんが、おそらく、"実力で見出される"ことを諦めたのでしょう。コネを生かして女優となり、業界人の男性と結婚しました。あるいは、自分を見初めた業界人の男性のコネを生かして女優となったのかもしれません。

なぜ彼女がパリで撮影予定の映画のオーディションに落ちたと思うのかというと、そうでないと払った犠牲(諦めた夢)がセブとミアで不均衡すぎるように思うのと、映画のラストでミアが夢想する"完璧なもしもの世界"の中で同じ映画のオーディションを受けるミアの姿は、影絵ではあるものの着飾って堂々としており、役を勝ち取っていたからです。現実のミアは、冴えないセーターを着て、俯き加減でおずおずとしていました。

 

ミアが晴れて女優となり、世界中を飛び回る活躍をするようになったから物理的にセブとの時間がとれなくなり、恋が終わったのだとは思いません。根拠のない自信で夢を追う夢追い人でなくなったとき、彼らの恋は終わったのでしょう。自分の夢を一部諦めてでも相手の夢の実現と恋の成就を願うには、2人とも、自分の夢への執着が強すぎたのだと思います。

芝居の練習なんてどこででも出来るのだから、自分のバンドのツアーに付いて来ればいいと言ったセブにミアは反発しましたが、結局はミアも同じ考えなのです。"完璧なもしもの世界"では、パリで撮影をするミアに、セブが同行しています。セブがミアに「不遇の俺を見下していたんだろ」と言ったことはある意味正しく、2人とも、心の底のどこかで相手を軽んじているのです。自分の夢のほうが相手の夢より優先されるべきだと、無意識に思っているのです。それは自分のことは客観的に見られないけれど相手のことは客観的に見られて、その結果、相手は相手自身が思っているほどの能力がない、ということが見えてしまっているからかもしれませんが。

 

夢追い人が夢を叶えるというストーリーかつ、万人受けしそうな鮮やかかつふんわりとした幻想的なミュージカル映画という体を装いながら、その実、人には自分が思うほどの才能はないから自分の能力の中でのベストを目指すしかない、という至極現実的な醒めた映画であるところが、個人的にはツボにハマりました。

"完璧なもしもの世界"で観客を酔わせるあざとい展開であることは否定しきれませんが、あの映像の中でミアが夢想している夢が、セブとミアの口論の原因となったセブの考え方そっくりそのままであるところが最高に皮肉が効いていると思うのです。

 

ただ、映画としては気に入ったのですが、ミア役エマ・ストーンの演技がオスカー主演女優賞モノかと言われると、首を傾げざるを得ません。

決して悪くはない演技でしたし、エマ・ストーンは割と好きな女優ではあるのですが、いまひとつ特筆すべきところが無かったように思います。